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【Contents List】

川の戦国史 中世史漠談

【What's New】
2017/05/06  川の戦国史Part16『安城合戦編Ⅱ』2017/5/13より開始します!
2016/11/13  中世史漠談Part10『林下編Ⅱ』を2016/11/19より開始します!
2016/07/02 中世史漠談Part9『天文軍乱編』を2016/7/9より開始します!
2015/12/26  中世史漠談Part8『明応軍乱編』を2016/1/2より開始します!
2015/07/18  中世史漠談Part7『林下編』を2015/7/26より再開します!


【安城合戦編Ⅱ】
+ Part16:安城合戦編Ⅱ + since 1540年(tenbun 9) to 1549年 (tenbun 18)

  0   まえがき及び参考文献
 1      第1節の考察:日覚書状はいつ書かれたか?
 2      第2節の論点抽出:日覚の弾正忠三河侵攻情報はあてになるか?
 2-1 日覚は弾正忠がどの一国を管領すると言っているのか?
 2-2 誰が誰の事を「愛想なし」と思ったか?
 2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか?
 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか?
 2-5  論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと
  3   第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1)
 3-1  北条氏康書状作成の背景について
 3-2 織田信秀は出兵を今川義元に相談したのか?
 3-3  ①『古証文』の底本は何か?
 3-3  ②『古証文』の底本は何か?
 3-3  ③とある幕臣の蔵書目録
 3-4 「安城は要害だから」か、「安城の要害を」か?

【安城合戦編Ⅱ】
本編は、以前に拙ブログの「安城合戦編」で取り上げました北条氏康書状並びに同史料に関わる論文「織田信秀岡崎攻落考証」について再検討するものです。具体的な進め方としては論文の各節において提起されている論点を抽出し、論点の根拠史料を調べて理解を深めると同時に反証史料の存在と別解の可能性を探ってゆくというスタイルをとってゆきます。


【林下編Ⅱ】
+ Part10:林下編Ⅱ + since 1536年(tenbun 4) to 1541年 (tenbun 10)

今川氏輝の死から花倉の乱を通して今川義元の家督奪取そして、武田晴信の甲斐掌握までを取り扱います。
  1 まえがき
  2 今川家の宗旨報告書Ⅴ(花倉殿①)
  3 今川家の宗旨報告書Ⅵ(花倉殿②・泉奘)
   4 今川家の宗旨報告書Ⅶ(太原崇孚・今川義元)
   5 今川家の宗旨報告書Ⅷ(今川氏輝・今川心範)
   6 武田家の宗旨報告書Ⅰ(源義光~武田信虎)
   7 甲駿同盟
   8 武田家の宗旨報告書Ⅱ(武田信虎)
   9 武田家の宗旨報告書Ⅲ(武田晴信)
  10 武田家の宗旨報告書Ⅳ(穴山流武田氏)
  11 武田家の宗旨報告書Ⅴ(武田晴信・大井流武田氏)
  12 黄金回廊
  13 妙心寺のいざない
  14 戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略


【林下編Ⅱ】

林下編Ⅱでは今川氏輝の死から花倉の乱を通して今川義元の家督奪取そして、武田晴信の甲斐掌握までを取り扱います。太原崇孚は妙心寺の住持を務めた高僧といわれますが、実際に妙心寺派僧として妙心寺で修業をした期間は極めて短く、妙心寺出世に至る過程は極めて政治的な動きに基づくものです。花倉の乱を前後して妙心寺派がいかにして駿河・甲斐に入っていったか、そのあたりを描写してゆこうと思います。


【天文錯乱編】
+ Part9:天文錯乱編 + since 1507年(eishou 4) to 1536年 (tenbun 5)

細川高国の執政から天文法華の乱までの秩序崩壊の過程を中心に取り扱います。
  1 両細川の乱
  2 足利義稙の脱落
  3 高国政権の崩壊
   4 大物崩れ
   5 斯波!吉良!!今川!!!
   6 今川家の宗旨報告書Ⅲ(今川了俊①)
   7 今川家の宗旨報告書Ⅳ(今川了俊②)
   8 楞厳寺寺伝の謎
   9 堺幕府成立
  10 享禄の錯乱
  11 飛騨国興亡
  12 野合連合
  13 戦国時代の底
  14 天下は一揆の世たるべし
  15 山科本願寺炎上
  16 トラブルシューターw
  17 一向衆滅亡
  18 松本問答
  19 錯乱は終わらない


【天文錯乱編】

前編の明応軍乱編と今編の天文錯乱編は前々編林下の流れの中で当初は軽く触れ、政元暗殺後の妙心寺派躍進のきっかけとなった今川義元の話をするするつもりだったのですが、その間の妙心寺・大徳寺の動向を描写しようとすると、その間の政治動向に触れざるを得ないので永正錯乱までを明応軍乱編、天文法華の乱までを天文錯乱編として描くことにいたしました。天文錯乱は本来、山科本願寺破却から第一次石山戦争を指すわけですが、本稿は主に細川高国没落のきっかけとなる桂川合戦から一連の混迷のフィナーレと言うべき天文法華の乱までを描写したいと思います。


【明応軍乱編】
+ Part8:明応軍乱編 + since 1467(ohnin 1) to 1508年 (eishou 5)

  1 応仁の乱が十一年も続いた理由
  2 題目の巷
  3 細川政元と新仏教
  4 延暦寺焼亡
  5 波波伯部五郎宗量Ⅰ
  6 波波伯部五郎宗量Ⅱ
  7 赤澤朝経のセカンドライフⅠ
  8 天台座主堯胤法親王
  9 赤澤朝経のセカンドライフⅡ
 10 戦国仏教王国の内情
 11 南都の異端児古市澄胤Ⅰ
 12 南都の異端児古市澄胤Ⅱ
 13 阿州参陣
 14 本願寺参戦Ⅰ
 15 本願寺参戦Ⅱ
 16 後北条家の宗旨報告書Ⅰ(伊勢宗瑞)
 17 明応大震災
 18 東海道打通作戦Ⅰ
 19 永正の錯乱
 20 東海道打通作戦Ⅱ
 21 後北条家の宗旨報告書Ⅱ(伊勢宗瑞)
 22 後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱)
 22 戦国コンサルティングファーム
 23 後柏原帝の朝餉

【明応軍乱編】
本編においては、明応の政変から永正錯乱までの細川政元の執政を中心に、法華宗、臨済宗大徳寺派、妙心寺派の動きを交えながら見てゆきたいと思います。同時に一部川の戦国史でも触れておりますが、明応政変に連動した東海地方の動向を合わせて描写してまいります。


【安城合戦編 補遺】
+ Part15:安城合戦編 + since 1540(tenbun 9) to 1549年 (tenbun 18)


  16 補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説
  17 補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。
  18 補遺Ⅲ 記事の感想
  19 補遺Ⅳ 今年発表された中京大教授の新説

安城合戦編 補遺
今、2015年6月28日からほぼ1年前の読売新聞にとても興味深い記事が載っておりました。中京大学の村岡教授が徳川創業史のとある有名なエピソードについての新説を提唱したという話です。あいにく私自身がこの話を知ったのは記事がでてからずいぶん経った後だったのですが、記事と愛知県史に掲載された史料をもとに、自分なりの感想を記しておこうと思い立ちました。今後この分野で研究が進むことを期待します。

【林下編】
+ Part7:林下編 + since 1325(shochu 2) to 1481年 (bunmei 8)

  1
林下とは?
   2 わらしべ大徳寺
   3 妙心寺建立
   4 征服王Ⅰ
   5 征服王Ⅱ
   6 妙心寺倒産
   7 一休の生い立ち
   8 一休、為謙宗為に学ぶ。
   9 華叟宗曇
  10 一休、瑞祥庵で修行す。
  11 養叟宗頤、大徳寺法統を守護する。
  12 妙心寺復活
  13 関山派、大徳寺住持の座を勝ち取る。
  14 紫を着る男Ⅰ
  15 紫を着る男Ⅱ
  16 一休、養叟宗頤と大喧嘩をやらかす。
  17 堅田本福寺
  18 一休と蓮如
  19 細川氏の為の禅林
  20 一休の黒歴史
  21 応仁乱中の妙心寺の生存戦略
  22 一日住持、付けたり侘茶のこと
  23 大徳寺歴代(開山宗峰妙超~七十三世東海宗朝)
  24 山名家の宗旨報告書Ⅰ(山名時氏~時義)
  25 山名家の宗旨報告書Ⅱ(山名時煕~持豊)

【林下編】
本編においては、臨済宗大徳寺派と妙心寺派を中心に見てゆく予定です。そもそも林下とは、夢窓疎石の流れを汲む臨済宗主流派以外の禅宗諸派を指します。足利幕府の庇護のもと、南禅寺を筆頭に五山、十刹、諸山と確立された序列に属する臨済禅宗寺院全体を指して叢林と呼ばれます。寺院の一つ一つを一本の木になぞらえ、それぞれの木が集まって林をなしている状態を指しているわけですね。
林下とは、その叢林の下に位置するもの、という意味です。曹洞宗もまた、五山の序列に属さぬ禅宗であるが故に、林下の範疇に入ったりするのですが、そのあらましは以前に一通り紹介しましたので、本編においては省略します。
話を戻しますと、大徳寺派・妙心寺派は成り立ちが成り立ちなので、初期においては本当に鳴かず飛ばずです。教勢を伸ばそうとはするのですが、失敗を重ねてゆくのですね。それが、臨済宗最大勢力となる画期になったのが、義天玄承・雪江宗深と細川勝元との結びつきでした。
本編においては、その鳴かず飛ばずの時代を一休宗純の生き様で埋めつつ、林下が叢林を凌ぐきっかけをつかむまでを描写いたします。

【東亜動乱編】
+ Part6:東亜動乱編 + since 1341 to 1424年

 
1 禅と宋王朝
  2 朱元璋の外交政策
  3 朱元璋の内部粛清
  4 日明交易と禅宗の変質
  5 バヤンテムルの高麗回復運動
  6 朝鮮王朝の成立と廃仏運動

【東亜動乱編
  本編においては、禅宗の受容と政治的要因による変質を追ってゆきたいと思います。最初の一編で室町幕府草創期までの禅宗の受容事情を述べ、その後に中国と朝鮮半島における政治の動きを見てゆきます。この期間、中国においては元から明へ、朝鮮半島においては高麗から李氏朝鮮へと王朝の交替がありました。
 南宋王朝や高麗は仏教を重んじており、日本の禅宗は南宋五山の宗旨を日本へと移植することに力点が置かれていたわけですが、この王朝交替によって、中国の禅宗のあり方そのものが変わってくるようになりました。それに応じて日本の禅も詩作や書画に没頭してゆくことになります。それだけではなく、十方住持の制度という他寺院から住持を迎え入れる制度の導入によって、師弟関係が肝であった禅宗もその要素が薄らいでゆきます。そういった動きの背景となる東亜諸国の動静を簡潔に触れてゆきたいと思います。

【洛中幕府編Ⅲ】
+ Part5-3:洛中幕府編Ⅲ + since 1362(jouti 1) to 1401年(ouei 8)


  1 洛中幕府編年表
  2 宗門圧迫と幼君体制
  3 続正法論事件
  4 喧嘩のやり方(京風味)
  5 妙葩隠遁と六角処分、付けたり九州探題の事
  6 山名時氏
  7 トリックスターのおわり
  8 細川政権

  9 洛中幕府移転
 10 四面楚歌
 11 康暦の政変
 12 燃える天龍寺
 13 最後の神木と祇園社の独立
 14 考察

【洛中幕府編Ⅲ】
  本編では貞治の政変後から康暦の政変までをあつかいます。この期間中に幕府は洛中の三条坊門第から洛外(といっても洛中に隣接する)室町第に遷り、洛中幕府の状態は解消いたします。
 貞治の変の後、細川頼之は幼君を戴いて管領となって政局は落ち着きを取り戻しつつありました。キングメーカーとして活躍した佐々木導誉の人生も終焉の時を迎えつつあります。
 政権を担当した管領細川頼之は有能な軍略家で、彼の尽力により九州までのルートが開通しますが、思わぬところで落とし穴にはまってしまう顛末を記します。

【洛中幕府編Ⅱ】
+ Part5-2:洛中幕府編Ⅱ + since 1336(rekiou 1) to 1362年(jouti 1)

  1 キャスティングヴォート戦術
  2 佐々木導誉Ⅰ
  3 再論、妙法院焼き討ち事件Ⅰ
  4 再論、妙法院焼き討ち事件Ⅱ
  5 玄恵は何でも知っているⅠ
  6 玄恵は何でも知っているⅡ
  7 玄恵は何でも知っているⅢ
  8 佐々木導誉Ⅱ
  9 バトルロワイヤル
 10佐々木導誉Ⅲ
 11婆娑羅の躍如Ⅰ
 12婆娑羅の躍如Ⅱ
 13執事から管領へⅠ
 14執事から管領へⅡ
 15導誉いぢめ
 16仏教王国ヤマト
 17貞治の政変と天龍寺
 18既得権益が出来上がるまで
 19第二次観応の擾乱
 20顕密仏教の逆襲と都合のよい三つの死
 21桃井直常の義

  • 【洛中幕府編Ⅱ】
     中世史漠談洛中幕府編は足利兄弟が自邸の三条坊門第に幕府を開いてから足利義満が室町第に幕府を移すまでの期間の描写を行っております。PartⅠにおいては、足利尊氏の弟、直義に視点を置いて比叡山対策と興禅運動、そして長門探題の意義について考察を進めてきましたが、足利直義は観応の擾乱の結果命を落としてしまいますので、この先を書き継ぐ為に別のキャラクターの視点を加えてゆきたいと思います。観応の擾乱後も政局の混迷は続いてゆくわけですが、その中で最後まで生き残ってしかも強烈な影響力を発揮した人物がおります。その人物とは、佐々木導誉です。本編では彼の視点を取り入れて進めてゆきたいと思います。それにあたって彼の人となりを理解するために一旦時代を鎌倉時代まで戻します。その後足利直義の政策に振り回される導誉を描いたのちに、一旦玄恵の朱子学について寄り道した後、観応の擾乱を再論し、本編では貞治の変まで進む予定です。この間、グダグダな政治情勢が続くわけで、歴史教科書も観応の擾乱からは足利義満の室町第まで一気にすっ飛ばされる事も多いわけですがゆるゆる書いてゆきますので、お付き合いいただけましたら幸いです。
  • 【洛中幕府編Ⅰ】
    + Part5-1:洛中幕府編Ⅰ + since 1336(rekiou 1) to 1352年(bunna 1)

     1 都市計画上の洛中と洛外
     2 洛中寺院前史
     3 専修なる寺号
     4 三条坊門幕府
     5 第二天台
     6 夢中問答
     7 保津川に黄金龍舞う
     8 全国一寺一塔建立運動
     9 バタフライエフェクトⅠ
     10バタフライエフェクトⅡ
     11バタフライエフェクトⅢ
     12合成の誤謬
     13夢窓との距離
     14反動
     15オセロゲーム
     16考察


    【洛中幕府編】

     本編は足利尊氏から義満の代にかかるまで、洛内にあった幕府の話を長々としたいと思います。要するに、太平記の湊川合戦以降、特に第三部あたりの世界です。一般に足利氏が開いた幕府の事を室町幕府と言いますが、足利尊氏が征夷大将軍になった時点では室町に幕府はありませんでした。また、厳密にはこの時代を室町幕府とは呼ばず、南北朝時代とか、皇国史観では吉野朝時代などと呼んでおります。
     この時代は一天二君の内乱期といっても、湊川以降の大覚寺統の勢力は弱体化の一途をたどり、足利氏が支持した持明院統ははっきり言って傀儡でした。正平一統事件で南朝が北朝の天皇・上皇を根こそぎ拉致した折も、反則すれすれの手段で皇統を維持したりしております。南北朝の騒乱が長期化したのは足利一門の分裂によって一方が南朝方に寝返ったためという側面があります。この時代に一貫してヘゲモニーを握っていたのは足利幕府でした。
     その足利幕府が室町第に将軍御所を移す以前、室町幕府は三条坊門にありました。これは、平安京遷都以来、前代未聞の事でした。というのは、基本的に洛内は天皇の物であり、禁裏以外に洛内に政庁がおかれたことがないからです。院政の始まりによって天皇の権限は皇室の惣領である治天が担うようになりましたが、その院庁すら、洛内に置かれることはありませんでした。武家政権にいたっては、平氏や鎌倉幕府の監視機関である六波羅探題が想起されますが、それも鴨川の外側、東山に位置しており、洛内に入って禁裏を統制しようという発想はありませんでした。
     足利兄弟はその慣例を破り、洛内の自分の邸宅に幕府を開いたばかりか、一門の菩提寺までその敷地に建てたわけです。本編ではその前例破りの幕府を洛中幕府と呼んで、室町第移転前後までの歴史を追いかけようというのが趣旨です。

     本来であれば、臨済編、曹洞編、法華編と続いて林下、すなわち大徳寺・妙心寺派の歴史を追いたいのですが、大徳寺が後醍醐親政が破たんしたのち、一旦没落した後は応永の乱のあおりをくって妙心寺が廃絶されるまで事件らしい事件は起こっていないのです。むしろ、この時代に五山が着々と地歩を固めてゆく中でその存在感は非常に小さいと言わざるを得ません。これが逆転するのが戦国時代に入ってからです。足利尊氏が天下を取った時点と、林下が勢力を伸ばした時期とでは世相がかなり異なっておりますので、本編にてその間を埋めることを試みたいと思います。

    【法華編】
    + Part4:法華編 + since 1222(jouou 1) to 1466(kanjou 7)

    法華宗の成立事情から、戦国時代直前までの法華宗の洛中展開を中心に記します。

     1 法華という呼称について
     2 母体としての延暦寺
     3 依って立つところの法華経
     4 浄土門論争
     5 バーチャ時頼
     6 天台教学の純化
     7 六老僧と諸門流
     8 京都進出
     9 日印と日静
     10ブルーオーシャン・レッドオーシャン
     11洛中における潜在的南朝勢力
     12執事戦争
     13観応の擾乱
     14正平一統
     15北朝復活
     16自己実現の物語と町衆の具足山
     17バランス・オブ・パワー
     18受難の法則
     19三度目
     20宗祖への回帰または、差別化戦略
     21寛正の盟約

    【曹洞編】
    + Part3:曹洞編 + since 1223(jouou 2) to 1488(choukyou 2)

     日本の曹洞宗の成立事情から、足利一門の紹介を絡めて今川家を初めとする海道への進出事情を記します。

     1 曹洞宗とは?
     2 日本達磨宗
     3 鎌倉布教の話
     4 三代争論
     5 寒厳義尹
     6 足利将軍家御一家衆
     7 足利尾張守家
     8 新田・山名・細川氏など
     9 海道への展開
     10今川家の宗旨報告書Ⅰ(今川範国~今川範忠)
     11今川家の宗旨報告書Ⅱ(今川範国~今川氏親)
     12本願寺教団の蚕食

    【まえがき】、【臨済編】
    + Part1:まえがき +
     1 中世史漠談

    + Part2:臨済編 + since 1184(genryaku 1) to 1345(jouwa 1)
     臨済宗の日本渡来から、日本における五山成立までを描写します。

     
    1 臨済編①臨済宗とは?
     2 臨済編②源頼朝の場合
     3 臨済編③北条時頼の場合
     4 臨済編④兀庵普寧と無学祖元
     5 臨済編⑤五山の形成
     6 臨済編⑥鑁阿寺の置文
     7 臨済編⑦元からの使者
     8 臨済編⑧一山の弟子であること
     9 臨済編⑨継嗣高峰
     10臨済編⑩国師夢窓
     11臨済編⑪寺社造営唐船
     12臨済編⑫五山の完成
     13臨済編⑬考察
     

    【中世史漠談】
    かつて司馬遼太郎氏が織田信長の業績について言及する時に『仏教や荘園制などの古い制度を破壊して、近世の扉を開いた』と評価されていたことが、ずっと心に残っていたためです。織田信長は良く知られている通り、延暦寺を焼討し、本願寺教団の拠点を根切りし、洛中の法華信徒に論争を仕掛けて折伏を停止せしめました。それ以降、寺社勢力は猫の子のように大人しくなり、江戸期になって、葬式と戸籍を管理する役場としての役目を果たすだけの存在になっったと言われております。
     ただ、歴史の本を読むに、例えば、北条早雲や武田信玄や上杉謙信などは僧形の武将なのに、彼らがどのような宗旨で、その宗派はどんなコネクションをもっていたのか語られることは稀です。太原崇孚は今川義元の側近として辣腕をふるった禅僧ですが、一介の禅僧が何故戦国武将の軍師として活躍しえたのか。豊臣秀吉や徳川家康が天下を取った後も、西笑承兌や天海・崇伝らが当たり前のような顔をして脇を固めていることに違和感を禁じえませんでした。
     それは間違いなく、織田信長が壊した古き物の残滓であったのでしょう。では、それは一体何だったのでしょうか? 果たして我々は十二分に知っているでしょうか? 『中世史漠談』においては、その実相がどんなものだったのか、判り易く迫ってゆきたいと思います。


     

    【安城合戦編】
    + Part15:安城合戦編 + since 1540(tenbun 9) to 1548(tenbun 17)
     安城合戦天文九年説への疑問と天文十六年仮説について、過去記事の再掲及び、天文十七年付北条氏康文書を交えて考察します。

      1 安城合戦編①プロローグ
      2 安城合戦編②天文九年の安城城陥落説(再掲)
      3 安城合戦編③第一次小豆坂合戦のまぼろし(再掲)
      4 安城合戦編④真・安城城陥落Ⅰ(再掲)
      5 安城合戦編⑤真・安城城陥落Ⅱ(再掲)
      6 安城合戦編⑥北条氏康文書についてⅠ(再掲)
      7 安城合戦編⑦北条氏康文書についてⅡ(再掲)
      8 安城合戦編⑧北条氏康文書についてⅢ(再掲)
      9 安城合戦編⑨史料パズルⅠ
     10 安城合戦編⑩史料パズルⅡ
     11 安城合戦編⑪漢字パズルⅠ(安城市史における「被相談」について)
     12 安城合戦編⑫漢字パズルⅡ(無の読み方)
     13 安城合戦編⑬漢字パズルⅢ(被の読み方)
     14 安城合戦編⑭偽書説について 
     15 安城合戦編⑮考察