史料集

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〇安心軒・瓦礫軒宛斎藤利政書状 古証文 国立公文書館デジタルアーカイブより引用

其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言
(天文十三年)
九月廿三日
斎藤左近大夫
利政
安心軒
瓦礫軒
 玉床下

 

 

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〇水野十郎左衛門向け長井久兵衛秀元書状 古証文 国立公文書館デジタルアーカイブより引用

先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候、近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候、可得御意候、恐惶謹言、
(天文十三年)
九月廿五日
長井久兵衛
 秀元
水野十郎左衛門殿

 

 

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〇水野十郎左衛門宛織田信秀書状 古証文 国立公文書館デジタルアーカイブより引用
此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由、尤存候、弥無御油断、可被仰付儀肝要候、尚林新五郎可申候、恐々謹言、
(天文十三年)
閏十一月十一日
信秀
水野十郎左衛門尉殿
     御返報

 

 

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〇東国紀行 群書類従第十八輯 続群書類従刊行会刊より引用

此會已後常滑までと急侍るに。やがて水野監物丞より使有。
先年在京の比は連歌のさたもなかりしを。一両年すぎにて。
大野の衆同道あるべしなど契約の所に。
参河より尾州へ手違いあるべしの使昨日きたれば無念のよし
かずゝゝの事なり。本より急侍ればよき事にて。何様にも
歸京の頃になど申あひたり。大野より一里ばかりなれば。
はまづたひ逍遥ども種々奔走。目もおどろくばかりなり。
けふは十二日精進ながら。懇切も難謝やうなれば。
衆議に任せたり。大野衆いまはこれよりなどいひて。

 

出てこし都に似たる名残哉昔の友の今の別れは

 

と。馬上より見別れたり。なゝの渡まではほどなければ。
敵地ちかく送衆歴々なり。船の事昨日よりいひつけられたれば。
てまもいらず。くれはてゝ参河大濱までをしつけたり。
称名寺の住持濱までわたらせたまひをり侍る。数年乱後。
ことに敵城ほどなくて。毎日足軽など不慮に打よせる比なれば。
たゝみさへなき不辨さなり。一會の事あまり聊爾にやなどあれど。
心ざしのほども見えければ。

 

かきくつしうつみ火つくすむかし哉

 

そのかみ當國にやすらふ事ありけむ。當寺時衆相阿覚阿などいひて。
連歌執心せし人々の物語しつゝ。爐邊懐旧なるべし。十三日。岡崎
までといそぎ侍れば。住持も右馬にて鷲塚までわたりたまへり。
道のほどもおもしろし。

 

君をくるけふの別れは駒なべて打出の濱の心地こそすれ

 

と申かけたれば。

 

君にけふ逢坂山は遠けれと此別路に関守もかな

 

大津の荘厳寺に住たまひしを。藤澤よりの仰せにて。
去年この道場に入院ありけむ。其身花山院殿の御息。島の公方(義稙)
様の御猶子として。花頭殿にならせたまふべき人にてありしを。
おもはざる乱出来に時衆になりたまへり。哀れなる世なり。
八橋のわたりはいずかたぞと事とひ過るにははるかなる野あり。
東の雲まに雪かあらぬかなどおもふほどに。富士成けりといふ人あり。
おどろきあへり。

 

八橋や思ひわたりし富士のねを雲のはつかにけふみつる哉

 

といひつゝ。わしづかの寺内一見してわかれたり。
むかひは吉良(義諦)大矢御里成べし。こゝの眺望えもいはぬ入江の
磯なり。船より馬ひきおろさせ。うちはへ行くほど。むさしの国まで
思ひやられたる野徑うち過て。岡崎につきたり。阿部大蔵(元眞)
など知人。おはりざかひまで出陣の事ありていまだ不歸。

 

 

 

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〇牧野康成条目写 愛知県史 資料編10より引用
一 今橋(豊橋市)・田原(田原市)御敵ふせらるゝにおいてハ、今橋跡識(職、以下同ジ)、名字之知(地、以下同ジ)にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候者、今はし、田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候、伊奈(小坂井町)之儀、本知之事候間、不及申候、然者西三河猶一篇之上、若又両所御成敗之時も此分ニ可被仰付候、
一 同主田原・今橋申様御座候者、御味方に可被成事、於我等忝存候、右之申分ハ御敵等参候者の申事候、
一 長澤(豊川市)ニ参御成敗候ハゝ、彼跡識一円ニ仰付て可被下候、今之城、不被仰付候間、此儀今以播面目候ために如此申上候、
一 長澤御味方ニ参候者、下条之郷(豊川市・豊橋市)・和田之郷(豊橋市)・千両(豊川市)上下・大崎郷(豊橋市)・佐脇郷(豊川市)上下・六角(同)郷、此都合八百貫余、可有御座候、以上使被御糺明、可被仰付候事
  此小書うら書と同筆にて
   此一ヶ条ハ、長澤被付御敵之上、只今之被仰事、入間敷存候間、可被除之候
一 御出馬候歟、又御人数西郷(豊橋市)へ御行候ハゝ、質物渡可申事、右之条々、有御分別御披露可畏入候、然者御聴(ママ)も被合御判形を可被下候
  以上
天文十五年丙午九月二十八日 牧野田三郎康成 判

 

右之奥書
 此五ヶ条之内一ヶ条を除く四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐(信孝)・安心軒在国之時、屋形(今川義元)遣判形之上、不可別儀候、尚只今承候間、我等加印申候也、仍如件、
 十一月二十五日 (朝比奈)泰能 判
         (朝比奈)親徳 判
         (太原)崇孚 判

(拙訳)
一 今橋・田原が(今川家の)潜在敵となっていることについて、今橋(領主)の後任は、(牧野が今橋の)名字の地であるので、城と一緒にお任せくださいと、訴えましたところ、両所が御敵を制圧したならば、今橋・田原の知行については、(吉田)川より西を境に入り組みなしに知行するようにとのご命令がありました。この上とやかく申し立てし難いので、この通りに致します。伊奈については、本来の知行であるということで、申し立てはしません。なので西三河にまた変事が起り、もしまた御両所が御成敗される時には当方にご命令ください。
一 同じ主である田原・今橋(戸田氏)の言い分に対しては、私たちの御味方に成って頂けるとのこと、我等もありがたく思っております。右(戸田氏)の言い分は御敵等に与する者たちの言う事です。
一 長澤を御成敗されるのであれば、彼の領地一円の後任をお任せください。今だにこの城をお任せいただけないので、この一件を今一度面目を施すためにこのように申し上げます。
一 長澤の味方として集まったのは下条の郷、和田の郷、千両上下、大崎郷、佐脇郷上下、六角郷、の者たちで、これらの所領は都合八百貫余りになります。彼らの行いを究明させていただけますようお命じください。

  この文書の裏書と同じ筆跡にて
   この一ヶ条は、長澤が敵についた事で、新たに言い出された事なので条件に入れるまでもないと思います。これは除外してください。

一 御出馬されますでしょうか。また軍勢を西郷へ向けるのでしたら、質物を渡して申してください。右の内容については、ご検討の上披露していただけますようお願いいたします。その折は書状に印判を押してお下げ渡しください。
 以上
天文十五年丙午九月二十八日 牧野田三郎康成 判

右の奥書
 この五箇条の内一ヶ条を除く四ヶ条の事は、先日松平蔵人佐・安心軒が在国の時、今川義元が判形を遣わしているので、それ以外の事はありません。なお新たに書状を受け付けたので、我等の印を追加しました。以上の通りです。
 十一月二十五日 (朝比奈)泰能 判
         (朝比奈)親徳 判
         (太原)崇孚 判

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